魂の奥底にある「分人」

1月 10th, 2022 | Posted by admin in 長橋のつぶやき

 年末年始に読んだ本で、とても印象に残ったのが「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(平野啓一郎、講談社現代新書)です。


 もともと、この本のコンセプトは、これまで私は「個人」で括られることが多かったなかで、「分人」でもいいじゃない、という「私」の別の見方の提示にありそうです。


 まあ、会社でいえば、新卒で入社した会社で、ずっとその会社に勤めて、定年退職する、会社人間というのでしょうか、会社=人生=これ以上分けることができない「個人」でもあります。 一方で、最近は会社人間も少なくなりましたよね、流行りでは副業、あるいは、週末のコミュニティ活動とかでしょうか。「私」は、一人ですが、いろいろな顔・性格を持ち、分けることができる「分人」であると。


 で、印象に残ったのは、2つです。まず、「本当の自分とは何か?」と。


 今となってはもうだいぶ古いですが、自分が中学あたりのとき、尾崎豊の「卒業」が流行っていて、カラオケでも何度も歌った記憶があります。 彼は最後にこう叫ぶのですね、「あと何度自分自身卒業すれば本当の自分に辿り着けるだろう」、これはどういう意味なんだろう?と当時からずっと疑問に思ってました。 ただ、この「分人」という概念を当てはめると、何度卒業しても、その卒業した自分は「分人」であって、そうした分人も認めてあげてもよいのではないかと。 尾崎がこの曲にこめた思いとは違うかもしれないですが、20数年来の疑問が自分なりに整理できました。


 もう一つは、「分人と死」ということです。


 平野氏は最後に分人と死について語ります、いわく、「あなたの存在は、他者の分人を通じて、あなたの死後もこの世界に残り続ける。」(p154) 

最近は、だいぶ回数が減りましたが、仏壇の前でご先祖様、亡くなった方に手をあわせる、故人の思い出を語る、それは分人を通じて、残り続けると。 ピクサーの映画「リメンバーミー」も似たコンセプトですよね。主人公ミゲルは、ひょんなことから一度死んだ国である「死者の国」に舞い込みます。 この「死者の国」では、ガイコツ人間となって、生きることができますが、自分のことを思い出してくれる人が誰一人いなくなったら「二度目の死」を迎え、消滅します。 「分人」という話では、他者の分人がいるうちは、この世界に残りつづけますが、それがなくなったら、「二度目の死」を迎えると。そう考えると、ご先祖様を大事にしなくてはいけないですね。


 かつて村上春樹は、「物語というのは人の魂の奥底にある。人の心の一番深い場所にあるから、人と人とを根元でつなぎあわせることができる。」と指摘しています。 この分人も、平野氏が小説を構想するうえで、魂の奥底まで、考えて、考えた結果なのではないでしょうか。そうした魂の奥底をアクセスできる、とてもよい体験でした。

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