さて、先日、ある方とお話した話が記憶に残ったのでシェアです。テーマは、「何でも屋」vs「専門家」です。「何でも屋」は、良くも悪くも、どんな分野でも広く浅く何でもできるタイプで、一方で、「専門家」は、ある特定の分野において狭く深くできるタイプです。
で、この「何でも屋」vs「専門家」の今に始まったわけではなく、その歴史は古くて、この方曰く、「何でも屋」に分があり、かつての明治の知識人もこれに相当すると言います。この「何でも屋」の代表は福沢諭吉です、彼は幼少の頃は、中国の四書五経の漢籍を徹底暗記して、その教えを突き詰めて「専門家」になります。ただ、彼の場合は、漢学の「専門家」をベースにしながら、オランダ語にはじまり英語への洋学、「和魂洋才」でしょうかね、ベースである魂は和で、その魂をベースに才(手段)に洋に応用できると。
この和魂洋才、明治の知識人に限らず、今にも当てはまることは多いのかと思いました。たとえば、プログラミングは、これに近いかもしれません。コンピュータプログラミングは、コンピュータに指示を与える手続きで、それを実現するために、日本語、英語、中国語など様々な言語があるように、コンピュータプログラミングにも、C言語、JAVA、Python、Goなどなど様々なコンピュータ言語があります。
まあ、たしかに、自分の理解ではC言語とPythonとかはだいぶ違うと思いますが、「和魂洋才」は腹落ちします。というのは、プログラミングの「和魂」は、「データ構造とアルゴリズム」、それは、プログラミングは、処理すべきデータを整理・構造化して、そのデータをアルゴリズム=ルールに基づいて処理することだと思います。一方で、「洋才」は、個別のプログラミング言語です。というわけで、「データ構造とアルゴリズム」の基礎・和魂がある人は、あまり抵抗なく、ほかの言語にも割と応用できるというのが自分の理解です。
というわけで、「何でも屋」vs「専門家」、と、「和魂洋才」、ここから学べることは、まずは専門家、和魂として何かを突き詰めるということではないでしょうか。そして、地面を掘って、掘って、掘ると地下水に辿り着くように、どの地点でも掘ると同じ場所にいきつく、それが「何でも屋」なのかもしれません。というわけで、そうした地下水に辿り着くような「何でも屋」、こうありたいと思いました。