歴史に学ぶ強いチームの作り方

1月 29th, 2023 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (歴史に学ぶ強いチームの作り方 はコメントを受け付けていません)

さて、最近読んだ本「真珠湾攻撃総隊長の回想 渕田美津雄自叙伝」でいろいろ思うところがありました。著者の渕田美津雄中佐は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での航空隊の総隊長で、当時は海軍上層部から大規模な航空戦の指揮をできるのは彼しかいないという逸材だったそうです。

 もちろん、戦争というのは悲惨なものであり、かつ、日本国憲法第9条では戦争を国際紛争の解決する手段として永久に放棄しており、もう繰り返すことはないと信じていますが、一方で、チームワークという点では今の我々にも学ぶことが多そうです。

 真珠湾攻撃が計画された1940年初めは航空戦の黎明期であり、複数の空母を使った大規模な作戦はほぼなかったようです。とくに、飛行機の場合、難しいのは3次元&飛行時間が限られていること。車両の場合であれば、「この場所に集合」といえば、だいたい間違いないですが、航空機の場合、複数の空母から、「この場所に集合」だと、3次元の決まった場所の特定から、飛行時間が限られているため効率的に発着艦しなくてはいけないなど高い練度が要求されたそうです。そういうこともあり、真珠湾攻撃以前では、第一航空戦隊は空母赤城のみ、第二航空戦隊は空母蒼龍と航空部隊はバラバラに運用されていました。ただ、彼は早くから航空威力はマス、すなわち、集団で攻撃することに価値があることを見抜いていて、全航空部隊を集中、そして、統合した航空部隊を徹底的にトレーニングしたそうです。

 もう80年以上前の話ですが、このあたりのトレーニングの話は、昨年公開された映画「トップガン マーヴェリック」に近いかもしれないですね。この映画では、ならず者国家の濃縮ウランプラントを破壊すべく、急勾配の山を登り、谷底のプラントを破壊するミッションをこなすべく、日々トレーニングする姿が描かれています。ただ、決定的な違いは、やはり、数でしょうね。「トップガン マーヴェリック」の場合は、たしか、2機×2機の4機でした、真珠湾攻撃の場合は、空母6隻で、2段発進、第一波は189機、第二波は171機、合計、360機の大編隊、当時と今の技術の進歩はあるでしょうが、いずれにしてもチームとしてのまとまりが要求されます。

 で、チームワークという観点では、こうした大規模な編隊を一糸乱れように統率し、目的を達成することは、とても難しいことだと思います。たとえば、この作戦のなかで難しかったのが、真珠湾に碇泊している艦船へ魚雷を発射する雷撃だったそうです、真珠湾は水深が12mと比較的浅い海で、当時の魚雷は水深60mを想定していたため、魚雷の改良にくわえて、水面ギリギリまで急降下して雷撃する必要があり、鹿児島県の錦江湾を真珠湾に見立てて何度も何度も訓練を重ねたそうです。

 ここまでの練度を上げるのは相当大変とは思いますが、会社あるいは組織でも似た話でもありますよね。航空部隊の場合、いざ作戦開始となったら司令官が一つ一つ指示するヒマはないですね、実際、渕田大佐は一番機で出撃しましたが、そのメインな役割は戦果確認でした。なので、それぞれのメンバーが目標を共有して、自律的に行動せざるをえない、そして、こうした最強のチームを作るためには、優れたリーダー、絶え間ないトレーニング、目標の共有が欠かせなく、優秀な企業にも共通してみられる傾向ではありますね。ただ、これを常に維持するはとても難しいと思います。

 維持するという点では、作戦指導部は、真珠湾攻撃が上手くいきすぎたところもあり、慢心が芽生えたのでしょうね。その後、ミッドウェー海戦を契機に百戦錬磨のパイロットもどんどん失われ、敗戦となります。そして、渕田大佐は、理不尽な戦後処理に疲れ、引退するも、キリスト教に改宗し、布教という第二の人生を送ります。 歴史に「タラレバ」はありませんが、学ぶことは多いと思います。それは、強いチームのつくりかた、リーダーが明確なビジョンを掲げて、そのためにトレーニングをして、チームが同じ方向に向かって目標を実現する、これは今でも学ぶ点がありそうです。

教材づくりという目標

1月 3rd, 2023 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (教材づくりという目標 はコメントを受け付けていません)

あけましておめでとうございます、といっても、もう正月も3日になってしまいました、かつ、新年の決意表明とか目標とか、あまり達成した記憶がないので汗、基本はこの手のヤツはやらないのですが、自分のなかで、これからもやりたいことは何かな、と新年つらつら考えていたことです。

 基本、新しいことを学ぶことが好きなので、新しい分野のチャレンジ、会社をもっと強くしたい、などなどいろいろあるのですが、そのベースが教材づくりにあるのかなと思いました。自分と教材づくりとの付き合いは長くて、たしか最初は、20年くらい前に、シスコのCCNA向けのネットワーク研修のための教材づくりですね、TCP/IPの基本・応用を学んで、CCNAを取得するみたいなプログラムで、2008年に「これならわかるネットワーク」(講談社ブルーバックス)にもなりました。その後、NHK教育テレビ番組「ITホワイトボックス」などに関わらせていただいたのは今では懐かしい思い出です。

 そのあとは、たしか2015年くらいに、今は亡きインプレス顧問の故佐藤邦夫さんから「ナガハシ、お前大学のとき統計やっていたよな? 機械学習セミナーの講師やってくれ」という無茶ぶりもあり、まあ、たしかに大学というか証券会社のアナリストのときに統計っぽいことをやっていたので、2016年くらいから機械学習・ディープラーニングの教材づくりを開始しました。ただ、開始当初は、ヒドイもので、かなりクレームがありましたが、受講生からのフィードバックなどを通じて、受講生が何を知りたいのかのニーズを拾って、改善を繰り返してきました、何社かとやらせていただいたのですが、そのときの教材がいまでも利用されているとこもあるようで、やった甲斐がありました。本はそれほど売れませんでしたが、2冊ほど出しました。

 最近では、昨年シェアした記憶がありますが、野原ホールディングスのCFOとして、従業員向けにマネープランニング・投資教育の教材づくりを始めました。おカネとどう付き合うは古くて新しいテーマですが、DC・iDeCo・NISAなど長くおカネと付き合うことでメリットが得られる制度が増えてきたので、これからおカネとどう向き合うのか、自分も含めて何かしらの気づきがあればよいなと思います。こちらは社内限定で熟成中ですが笑、どこかのタイミングでアウトプットできればよいですね。

 で、こうした教材づくりをするのは、自分が教えたいという教育者的な信念は全くなくて、教材づくりを通じて、自分にも学びが得られるというところが大きいと思います。かつて、幕末の蘭学者・医学者の緒方洪庵の設立した適塾は、新しい西洋学問を学びたい門下生が多すぎたため、直接、緒方洪庵が指導する時間がなくて、門下生が門下生を教えるというスタイルだったそうです。で、その門下生であった福沢先生はこのスタイルを「半教半学」に結実させました、これは教師・生徒関係なく、お互いに教えあい、学びあうことでお互いを高める、能動的に学習するという点で、いまでいうアクティブラーニングに近いのかもしれないですね。自分の理想も、教材づくりを通じて、自分が少しでも新しいことを学びたい、ここにスタートラインにあるように思います。

 まあ、教材というとややかしこまった感はありますが、自分のイメージとしては、たたき台、ディスカッションマテリアルに近いものだと思います。やはり、どんなことをやろうとしても、話しているだけでは空中戦になってしまって前に進みません、たたき台をたたいて、PDCAを繰り替えして、よい教材にする、今年というかこれからも続けていきたいと思いますので、皆様方におかれましては、今年もどうぞよろしくお願いいたします。