先日、とある方とお話する機会があって、大いに考えさせられる機会がありました。
自分は長いこと情報技術(Information Technology)に身を置いてきて、基本的にIT化することはよいことだと思っています。
IT化の最大の恩恵のひとつは、知識のオープン化。
もう10年以上前からだけど、一部の大学では、その大学の教員による授業を包み隠さず公開しています。
Open Course Wareは、その代表例だし、最近では、MOOCもこの流れだと思う。
で、包み隠さず授業を公開してしまったら、大学に行かなくてもいいじゃないか?と思うかもしれなけど、実はそんなことはない。
むしろ、大学側が全く想定していない、かつ、世界中の優秀な学生が、その講義をネットで閲覧して、かつ、オンライン講義を履修して、優秀な成績を収める。
そうした優秀な学生を引っ張ってくれば、大学はますます活性化する。一種のタレント養成機関の一種とも言えるかもしれない。
実際に、モンゴルの高校生がMITのオンライン授業で優秀な成績を収め、最終的にMITに留学するという例もあり、やはり、これはIT化の最大の恩恵とも言えると思う。
でも、ITによって、失われる部分もあると思う。
そのなかで、自分が危惧しているのは、人間の思考力の低下。
たとえば、Google。自分は、何度かGoogleによって世界が変わるみたいな、Google礼賛記事、書籍を書いたりしました。
もちろん、テクノロジーという点では、Googleは素晴らしい企業だと思います。
”いろいろなところから引用されているホームページこそがランクの高いホームページ”という単純明快な切り口で検索のビジネスを一変し、さらには、検索連動型広告で、ユーザの気持ち=たとえば、サバ寿司で検索したら、サバ寿司の広告を表示する = ユーザはサバ寿司を食べたいことから検索したので、その広告をクリックする、というイノベーションで、IT業界を席巻したのは、記憶に新しいところです。
ただ、自分が思うのは、ITが便利になればなるほど、人間が判断する余地が少なくなること。
たとえば、今後の技術の進歩の結果として、無人運転が実用化されると目されている、もちろん、自動運転は技術的には素晴らしいことだと思う。
そして、自動運転が当たり前になれば、言うまでもなく、コンピュータが勝手に運転してくれるので、人間が判断する余地が少なくなる、ちょっと、ネガティブな言い方をすれば、人間が判断することなく、コンピュータに任せてしまう。
もちろん、自動運転だからといって、すべてをコンピュータに任せるわけではないけど、やはり、人間が考える余地が減ってしまうと思う。
そう、こうしたコンピュータが考えてくれる”人工知能”はすばらしいことだと思う。でも、人間が人工知能に頼って、考えることをやめてしまったら、たぶん、良いことはない。たとえば、レコメンデーションエンジンで、”この人に投票しましょう”というレコメンドが出て、何も”考えず”に投票してしまって、後の祭りということは十分あると思う。
じゃあ、どうするか?
やっぱり、人工知能の時代だからこそ、”脳に汗をかくくらい”考えなければいけないと思う。ある命題について、考えて、考えて、考えまくる。そのプロセスが人工知能時代にはますます重要になると思う。
そのなかで、一つの指針となるのが、20世紀の科学哲学者カール・ポパーが提唱した”反証可能性”という考え方。
反証可能性とは、ある仮説について、その仮説が誤っている可能性を示すこと。
たとえば、グーグルが提示したレコメンデーションはあくまでも仮説であって、それが100%正しいとは限らない。
そして、その仮説が間違っていたら、それを自分で考えて、判断すべきであり、グーグルがリコメンドしていることは100%正しいとおもねってはいけない。
だからこそ、こうした”反証可能性”を養うこと、批判的精神を養うこと、これを涵養することが、人工知能時代にとても重要だと思うのです。