錆びないスキルとは?

11月 14th, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (錆びないスキルとは? はコメントを受け付けていません)

 先日、ある方から面白い話をお伺いしました。テーマは、「なぜ、日本のIT化は遅れているか?」ということです。たしかに、先日、発表されたIMDの世界デジタル競争力ランキングだと日本は31位(昨年は32位)と1ランク上がっていますが、シンガポール、米国などにくらべるとだいぶ溝をあけられています。

 その方の話では、世界デジタル競争力を見ると、日本はモバイルブロードバンドの普及だったり、ロボットの流通だったり、ソフトウェア著作権保護などの分野では日本のレベルは高いものの、国際経験、デジタル技術スキルが低いことが要因だと。たしかに、最近は大企業では、デジタル技術スキルを向上する研修などが必須のところが増えていますが、中小企業などでは、なかなかそこまで手が回らないですよね。これは実感として納得できるものであります。

 さて、この話で思い出したのが、IBMの話です。いまは大分変わってしまったと思いますが、かつて、外資を中心にIT企業のトップ・マネジメントの大半がIBM出身者で占めていました。オラクルとかセールスフォースとかですね。そして、実際にIBM出身の方に、「どうしたらIBMは人材輩出企業になれたのでしょうか?」と聞いたことがあります。その答えは「とにかく研修といった学びの機会が多かった。単なるスキルだけではなく、いろいろな研修を受けたことが役に立っていて、IBMには継続して学習する文化がある」という回答で、なるほど、ハラオチした記憶があります。

 自分の感覚だと、プログラミング、データ分析、AI、クラウド技術のようなデジタル技術スキルは、日進月歩で進化するので、「一回勉強すればスキルが身につく」、という話ではなく、継続的に学習をしないと、すぐに陳腐化、磨いたスキルが錆びてしまうように思います。実際、自分もその昔、プログラミングをやっていましたが、今はほとんどやっていないので、プログラミングの考え方自体は理解していますが、スキルとして使えるようになるには相当なリハビリが必要そうです汗 という意味で、デジタル技術スキルの場合、「継続して学習する」という要素がきわめて重要な分野と思われます。

 こうした継続的な学習が必要なデジタル技術スキルをどう取得するか?自分の場合は、幸いなことに大学・大学院の時代にこうしたスキルを取得できる機会がありました。が、これは独学ではできなくはないですが、相当の努力が必要そうです。なので、IBMのように、デジタル技術スキルに限らず、継続的な学習の機会を提供してくれるのであれば、これに乗っからない手はないですよね。何といっても、会社でキチンと仕事をすることが前提ですが、給料ももらえて、スキルも取得できて、さらに、継続的に学習できるので、錆びずにキープできるのですから。企業にとっては大きな経費負担ではありますが、、錆びないスキルをもつ優秀な社員を抱えることができるので、Win-Winな関係でもあります。

 で、最初の話に戻ると、「日本のIT化が遅れている」という点は、IBMの「継続して学習する文化」に学ぶところが多そうです。デジタル技術スキルならびにどんなスキルでも「一回勉強すれば身につく」ものでなく、錆びないように磨き続けることに価値があるように思います。なので、デジタル技術スキルの資格もありかもしれないですが、継続的にスキルを磨く要素も必要かもしれないですね。あるいは、就職・転職する際、「どんな研修がありますか?」よりも「継続的な研修の仕組みがありますか?」の方がスキルアップできる企業かもしれないですね。

アクティビズムを飲み込む企業価値創造

10月 21st, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (アクティビズムを飲み込む企業価値創造 はコメントを受け付けていません)

「アクティビズムを飲み込む企業価値創造」(手島直樹著、日経BP)を読みました。もう、だいぶ前ではありますが、自分もアナリストとして、上場会社をカバーすることがあり、どうやって企業価値を上げるかについて、事業会社と議論した経験がありますが、そこから、モノ言う株主であるアクティビストの立ち位置がだいぶ変わったように思います。

何が変わったか?やはり、自分がアナリストをしていたときも、アクティビストはいましたが、どちらかといえば、マイナーで、当時の雰囲気は「敵対的買収はありえない」、といった、総じてアクティビストに対してはネガティブな印象であり、どうやって強請ってくるアクティビストを上場会社は排除するかにエネルギーを注いでいたように思います。

 そこから、現在では、アクティビストに対する受容度はだいぶ変わったように思います。やはり、現状では、東証の要請もあるでしょうが、上場企業であれば株価を意識して経営すべしという考え方が少しずつ浸透してきたように思います。それは、現金など過剰に持っていて、かつ、株価対策をしていない上場会社に対して、アクティビストが自社株買い・増配を要求することは、もはや排除すべきことではなく、受け容れる土壌が育ってきたように思います。

さて、本書では、「アクティビズムを飲み込む企業価値創造」というタイトルで、アクティビスト的な考え方を「処方箋」として経営に取り組むべしと理解しました。まず、アクティビストによるアクティビズムには、良いアクティビズムと悪いアクティビズムがあり、良いアクティビズムは、アクティビストが対象とした会社について長期的な視点で会社の経営改革を促し、会社のポテンシャルを引き出すアクティビズム、一方、悪いアクティビズムは、一瞬の自社株買い・増配要求をして、それで終わってしまう「残念な」アクティビズムと定義しています。まあ、アクティビストも出資者が出資するファンドの一つであり、短期的にリターンを求める結果として、「悪い」アクティビズムなアプローチもあるので、一概に、良い悪いは定義するのは難しいかもしれないですね。

 良い悪いはさておき、アクティビズムには大きく分けて2つの手法があると指摘しています。まず一つは、グレハム流古典的なアクティビズム、ベンジャミン・グレハムはバリュー投資の概念を生み出した投資家で、バリュー投資は会社の価値と株価の間に乖離に投資をするスタイルです。グレハムのアクティビズムという点では、ある会社が時価総額を越えるレベルの社債を保有しており、その過剰資産を特別配当として株主還元を要求しました。会社の資産・資本をコントロールするキャピタル・マネジメントがグレハム流古典的なアクティビズムと指摘します。

 もう一つは、バフェット流現代アクティビズムで、資産・資本をコントロールするキャピタル・マネジメントのみならず、場合によっては取締役を派遣するなどして、経営や事業戦略まで踏み込んで価値向上を目指す、いわゆる、プライベートエクイティに近いアプローチかもしれないですね。で、株式取得から売却までのプロセスのなかで、大事なのがエンゲージメント。アクティビストとしてもリターンを上げるために会社に変革をしてもらいたい。一方で、会社としてもいろいろな事情もあり、すぐに変革できないときもあり、エンゲージメント(対話)を通じて、合意形成を目指すといったところでしょうか。

  この本の結論は、こうしたアクティビズムの手法は、キャピタル・マネジメントを含めて有効な手法であり、ターゲットになる前に「処方箋」として実践すべしと。これはそうですよね。たとえば、クロスボーダーのM&Aが盛んな業種であれば、いつ敵対的買収を提案されるかわからない、だからこそ、ターゲットになる前に、株価を上げる。これはアクティビズムの手法を反面教師として実践することでもあります。で、今年になって新NISAも始まったこともあり、株が身近になってきたように思います。そして、上場企業がアクティビズムの「処方箋」を取り入れて、株価を上げる努力をする、こうした絶え間のない努力をしている会社に投資したいですね。

電話交換手とウェイター

9月 16th, 2024 | Posted by admin in 日々の思い | 長橋のつぶやき - (電話交換手とウェイター はコメントを受け付けていません)

 ちょっと前のことですが、「となりのトトロ」を観ました。最初に観たのは、たしか、小学生のころで、「火垂るの墓」と同時上映でした。1988年上演なので、もう36年も前なのですね。いつ見ても、新しい気づきがあって、年月が経っても色褪せない素晴らしい作品でもあります。

 今回の気づきは、サツキの電話のシーンですね。となりのトトロにはネタバレがないという理解ですが笑、入院しているお母さんの病状が悪化を知らせる電報が届きます。そして、サツキは、取り乱して、お父さんの大学の研究室に電話をかけるのですよね。令和の現在では、電話そのものも減っていますが、となりのトトロの時代設定である昭和30年代では、サツキからの電話を電話交換手が物理的にプラグを差し替えて、大学の研究室に取り次いでいました。

 この電話交換手、今では、存在しませんが、その昔、担当したことがある方にお話をお伺いしたことがあって、楽な仕事ではないようです。というのは、サツキは、明確に大学の研究室を明示していましたが、曖昧な宛先もあったらしく、相応のコミュニケーション能力が求められたようです。あるいは、警察・救急・消防などの緊急通報についても、電話交換手が窓口として取り次ぎ、気を遣う仕事だったようです。とはいえ、物理的に電話プラグを交換するという作業は電子的な電話交換機に置き換わり、電話交換手はもはや存在しなくなりました。

 さて、先日、久しぶりファミレスのバーミヤンに行く機会がありました。最近のファミレス、注文はタブレット、配膳は配膳ロボット、会計はキャッシュレスと、場合によっては全くスタッフと接することがなく、無人で完結できることに驚きました。自分の知っているファミレスは、ウェイターがメニューを渡して、それを選んで、配膳してもらい、お会計もお願いするスタイルでしたが、注文・配膳・会計と無人で完結できるようになりました。というわけで、電話交換手がいなくなったように、ファミレスではウェイターがいなくなる日も近いかもしれないです。

 電話交換手とウェイター、いずれも、DXというか、電子化によって、仕事がなくなる業種ではあり、「寂しい」という見方もできますが、一方で、電話交換機で電話のキャパシティは増え、そして、レストランの自動化では、スタッフの費用も削減につながり、結果的に、料金につながるのではないでしょうか。

師団長はつらいよ

8月 27th, 2024 | Posted by admin in 日々の思い - (師団長はつらいよ はコメントを受け付けていません)

さて、「第百一師団長日誌 伊東政喜中将の日中戦争」を読みました。もともと、師団長というポストが、具体的に何をするのか、興味がありました。で、日誌の主人公の伊東中将は、明治14年(1881年)生まれで、明治37年(1904年)の日露戦争にも出征し、昭和12年(1937年)、56歳で予備役編入後も、同年の盧溝橋事件で日中戦争が勃発したことで、101師団長に就任。この日誌では、昭和12年の師団長就任から中国廬山で負傷するまでの約1年にわたって日々の活動が詳細に記されています。

 自分の理解では、師団とは単独で一つの作戦が可能な集団、会社でいえば、営業だけでは会社を運営できません。営業があり、場合によって製造があり、事務があってはじめて会社は成立します。というわけで、師団はさしずめ会社の社長みたいなものでしょうか。実際に、101師団は、2つの旅団、15の大隊から構成されていて、構成人員は25,000人くらいで、大企業の社長以上のステータスだったのではないでしょうか。

 ただ、一口に社長といっても、所有権(株式)を持っているオーナー社長もいれば、入社して順調に出世街道を歩んで社長になったサラリーマン社長があります。師団長の場合は、後者のサラリーマン社長ですね。旧日本軍の場合は、天皇陛下の軍隊という建付けなので、ボスは天皇陛下ですが、親任された師団長は自由に指揮できたかというと、伊東中将に限ってはあまりそういう状況ではなさそうです。

 そもそも101師団は、盧溝橋事件から飛び火した第2次上海事変に対応するための特設師団でした。もともと、昭和6年(1931年)の第1次上海事変では、2個師団で、上海周辺をコントロールできましたが、戦線拡大に伴い、特設師団の投入を決めました。特設師団は、ある地域に根差した通常師団ではなく、急遽、東京・神奈川を中心に招集した部隊から編制されました。通常師団の場合、

 この特設師団の難しさは、やはり、急遽集めた人員なので、訓練も十分とはいえず、伊東中将の思うように動いてくれなかったようです。会社もそうですよね、通常師団であれば地元で新卒を採用してじっくり育成するということができたのですが、特設師団の場合、ある程度、経験採用でフィルタリングされていますが、戦闘時はともかく、上海の警護任務では士気が低下したり、やはり「同じ釜の飯を食う」仲間でないので、そのモチベーションの維持が大変だったようです。

 くわえて、上からのプレッシャーもあります。101師団のミッションは何度か変わります。まず、最初は、第2次上海事変の対応として、101師団のミッションは上海近郊の要衝大場鎮の攻略ですが、2個師団で対応できていたのを、中国側も戦力増強したこともあり、特設師団投入を決めました。というわけで、相手もなかなか手ごわく、日によっては予定した場所に辿り着けなかったこともしばしばあり、上位の軍司令部からは、「何グズグズしてるんだ?」的な上からのプレッシャーがあったようです。一方で、激しく戦果を交えているため、消耗戦の様相もあり、負傷した人員の補充、装備の補充など、伊東中将が丹念に把握し、補充をリクエストするなど、選ばれし師団長という立場といえども、苦労が多く、大変だったのだろうなあ、としみじみ思います。ちなみに、伊東中将は、廬山にて負傷したあと、日本に戻り、その後は、101師団で戦死された家族の訪問をライフワークにされました、大変な仕事ながらも、部下を心から思う慈悲にあふれた素晴らしい方だったようです。

 最後に、会社の社長がある分野に特化したスペシャリストでなく、経営全般を担うゼネラリストのように、師団長もゼネラリストです。が、伊東中将は、長らく砲兵出身で、砲兵学校長も経験されるなど、当時の陸軍の砲兵の権威でもありました。日誌でも、どうやって砲兵を運用するか、かなり細かい記述があります。ただ、この砲兵にくわしいことが逆に仇になっているところもあるようで、伊東中将の後任の斎藤師団長は、「第101師団は火力戦闘、なかんずく砲兵の使用に重点を置けるに反し、第106師団は歩兵独力の夜襲に重点を置きたるが如し、いずれを可にするかは状況に依るも、小官は今少しく夜間戦闘を重視するの必要を痛感す」(p549)と、伊東中将は砲兵火力を重視して、効果があると思われる夜間戦闘は消極的だったようです。とはいえ、この夜間戦闘も旧陸軍の伝統芸として太平洋戦争で繰り返しますが、米軍相手には通用しませんでした。それはともかく、会社でもありますよね、営業出身の社長が自分の営業手法に絶対的な自信をもっていて、他の営業手法も提案されても、「このやり方ではダメ」と否定、こうした否定が会社を衰退させるのは、よくある話です。というわけで、ゼネラリストはゼネラリストに徹する、こうした態度が必要なのかもしれないですね。

ハロルド・フライまさかの旅立ち

7月 20th, 2024 | Posted by admin in 日々の思い - (ハロルド・フライまさかの旅立ち はコメントを受け付けていません)

  普段、劇場に映画を観に行くことはあまりないのですが、先日、たまたま、時間ができたので、気になっていた映画「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」を観てきました。

 この映画の内容は、タイトルの通りで、イギリス南部に住むビール会社を定年した自由自適に過ごす主人公ハロルド・フライ宛に、かつて一緒に働いていた女性クイーニーから、ガンのため余命が僅かという手紙が来ます。ハロルド・フライは、「お大事に」という手紙をポストに投函しようとしますが、どうもその気になれず、たまたま、立ち寄ったガソリンスタンドの店員から「信じる力」で知り合いがガンが良くなったという話を聞き、ハロルド・フライは800Km離れたエジンバラの手前のベリックまで歩いていくことを決意します。

 もともとの英語のタイトルは、「The Unlikely Pilgrimage of HAROLD FRY」、直訳すれば、「ハロルド・フライの予期しない巡礼」とでもいったところでしょうか。自分が歩くことによってクイーニーが少しでも良くなるだろうという「信じる力」が結果的に「巡礼」に行き着いたとも言えそうです。とはいえ、800Km歩くのはクレージーなことで、東京から大阪まで500Kmなので800kmだと広島あたりまでになるでしょうか。その昔の東海道53次よりだいぶ長いです。ただ、このクレージーさが、起業家と似たような話で、最初は妻に呆れられ、止められますが、次第に、ハロルド・フライの巡礼がメディアにも紹介され、英国中でも話題になり、大きなムーブメントにもなります。

 さて、自分はハロルド・フライのように800kmも歩いた経験はありませんが、旅の記憶という点では、もう10年近く前になりますがニュージーランドの思い出が忘れられません。南部の都市クライストチャーチから車でクイーンズタウンまで移動したのですが、いたるところにラグビー施設がありました。サッカーでもなく、野球でもなく、ラグビーがニュージーランドの生活のいたるところに溢れていました、やはり、裾野が広いのですよね。そして、「高い山ほど裾野が広い」、そうした裾野の広さがナショナルチームのオールブラックスに繋がっているのだと実感しました、これは旅の良さですよね、最近は全然言ってないですが、また、行きたいですね。

もうだいぶ前になりますが、元APU学長出口さんがこう仰ってました、よりよく生きるためには、「人・本・旅」を中心にすべしと。これはそのとおりですよね。そして、ハロルド・フライも、クイーニーに会いに行くという「旅」を通じて、亡くなった息子への贖罪も果たし、ひと皮剥けたように思います。というわけで、映画を通じて、旅への思いが強くなりました。

大リーグ養成ギブスとしてのAI

6月 8th, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (大リーグ養成ギブスとしてのAI はコメントを受け付けていません)

 もうだいぶ昔の高校・大学時代ですが、囲碁をやっていた時期がありました。今でもたまにネット碁をやるくらいですが、当時はだいぶハマっていました。その当時のスター棋士といえば、趙治勲氏(現名誉名人)で、当時は本因坊戦10連覇など破竹の勢いだったのを記憶しています。

  で、先月まで日経新聞の「私の履歴書」コーナーが趙治勲氏で、懐かしいなぁ、と思いながら、読んでいたのですが、29回目のAIに抵抗感にいろいろと考えるところがありました。2016年、「アルファ碁」が韓国のトップ棋士イセドルに4勝1敗で勝利したことは話題になりましたが、まだ、当時はAIにはつけ入る余裕があり、負けたのは、本人の油断だろうと趙治勲氏は判断しています。ただ、その後、AIの進化は凄まじく、今では、トッププロが2子を置いても勝てないといいます。たしか、自分の記憶では、コンピュータがチェスのチャンピオンを破ったのが1997年で、その当時、チェスはルールが単純なのでコンピュータでも勝てるが、囲碁はルールが複雑なので、無理だろう、いう論調でしたが、20年近くたって、囲碁も人間がAIに勝てなくなりました。

 なぜ人間がAIに勝てないか?それは、「AIはどんな状況でも結論を出す」からと指摘します。囲碁は、一言でいえば、陣取りゲームで、19×19=361の陣地のうち、黒もしくは白がより多くの陣地を取った方が勝ちます。ただ、終盤になると、どちらの形勢が優位なのか、アマチュアはもとより、プロでも判断するのが難しいです。一方で、この手の判断、AIは得意な分野ではありますよね。現状のそれぞれの持っている陣地、今後の打ち手を判断しながら、「黒の勝率70%」と形勢判断をする、これを毎回やられたら人間は勝てないですよね、「神様が作ったゲーム」にAIという別の神様が降臨してきた、というのはアイロニックではありますが、言い得て妙でもあります。

 というわけで、これからはどんなに逆立ちをしても囲碁ではAIに人間が勝てることはなさそうです。で、どうやってAIと付き合っていくのか?趙治勲氏が指摘するように、AIで勉強するというのは一つのやり方ですよね、人間よりも圧倒的に形勢判断が優れているAIを使って、さらに強くなる、囲碁の大リーグ養成ギブスになるかもしれません笑 

 さて、この話、ちょっと抽象度を上げると、囲碁に限らず、人間はAIとどう付き合うか?という話ではないでしょか。人間が囲碁にAIで勝てないように、ビジネスの多くの分野でAIに勝てないのは間違いないですよね。だからこそ、囲碁の形勢判断にAIを利用するなど、優れているものを利用することですよね。じゃあ、何を利用すればいいんだ?と、これはケースバイケースですが、ChatGPTとか、優れた言語モデルを手軽に利用できる機会も増えてきました。自分も最近Googleの検索以上に、ChatGPT使っているような気がします。というわけで、趙治勲氏はAIに抵抗感があるのは理解できますが笑、我々はAIを大リーグ養成ギブスとして能力大幅アップのために使いたいですね。

一燈を提げて暗夜を行く

5月 6th, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (一燈を提げて暗夜を行く はコメントを受け付けていません)

 最近ふと思ったことです、たしか、2018年くらいから東京と軽井沢を行き来して、6年近く経ちました。そのなかで、振り返ってみると、「火起こし」が身近になった気がします。そりゃそうですよね、東京では、「火起こし」をすることはほぼないです。基本的にはガスコンロでスイッチをオンにすれば、「火起こし」をしてくれます。

 まあ、日本全国でガスが通っていない、火が通っていない箇所は少なくなりました、軽井沢ももちろんインフラはありますが、たとえば、冬であれば薪に火をつける、夏であればBBQなど、生活必需ではないですが、「火起こし」の場面が増えました。

  この「火起こし」、最初は結構苦戦しました、新聞紙を入れても一瞬燃えるだけでなかなか火がつかないし、火がついたと思ったら、すぐ消える、炭にも火がつかない。いろいろ試行錯誤するなかで、だいぶ、コツがわかってきました。そのコツは、「小さく火を起こすこと」。やはり、いきなり大きな薪には火はつきません、だから、枝のようなすぐ火がつく木を燃やす、さらには、小枝を大きくした大枝、それを重ねていくと、だんだん、火に勢いがつき、温度が上昇し、やがて、大きな薪でも火がつきます。

 さて、この話、ビジネスも似たところがあるのではないでしょうか。自分の理解では、どんなビジネスもスタート同時にメラメラと燃えることはないと思います。よく言われるのは、イノベーター理論ですよね。新しいサービス・製品は、最初は新しいものに目のないイノベーターが興味を示し、そこから新しいものを許容するアーリーアダプター、その後、一般普及に近づくアーリーマジョリティ、レイトマジョリティになると。この火の起こし方のアナロジーでいえば、マジョリティは大きな薪と言えるかもしれません、つまり、まず、小枝たるイノベーター、大枝たるアーリーアダプターで火をつけて、そこから温度が上昇し、マジョリティまでたどり着くと。

 ただ、火起こしとビジネスの違いは、火起こしの場合、火が消えるケースはだいたい限れていますよね、外であれば雨が降る、風が強くて火が消える、あるいは、薪が十分乾いていない、くらいでしょうか。一方、ビジネスの場合は、火が消える要素がたくさんあるように思います、思いつくところだと、景気が悪くなった、競合にシェアを奪われた、内部組織が上手くいかなくなった、協業先が立ち行かなくなった、おカネがなくなった、などなど。枚挙にいとまがありません。なので、イノベーター、アーリーアダプターで付いた火を絶やさず、アーリー、レイトマジョリティ層まで燃やしつづけるのは並大抵のことではないと思います。

 でも、火起こしとビジネスのもう一つの違いは、ビジネスの場合、どんな困難があっても、「やらなければならない」という強い使命感・リーダーシップがあれば、火を絶やさず、燃やし続けることができるのではないでしょうか。江戸時代の儒学者佐藤一斎先生は、こう仰ってます「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。」 景気が悪い、シェアを奪われた、組織が上手くいかない、協業先が立ち行かない、おカネがなくなった、いろいろ課題はあると思います、ただ、そうした暗い暗夜を憂うるのではなく、提灯の僅かな光、一燈、を信じて迷わず進めと。信じる者は救われる、でしょうか。というわけでオチです、火起こしができるようになった要因は、小さな意味で、付いた火、一燈を提げて暗夜を憂うることがなくなったと、ビジネスもこうありたいものです。

人生後半の戦略書

4月 14th, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (人生後半の戦略書 はコメントを受け付けていません)

 最近、読んだ本「人生後半の戦略書」が、深く印象に残りました。自分もあと数年で50代になります、いつまでも変わらないつもりではありますが、やはり、人生後半に差し掛かっているのだろうと思います。というのは、どんなにこれから医学が進歩しても、100歳までは生きることができても、150歳まで生きることはできないでしょうし、そこまで生きていても、あまり幸せではないとも思います。

  この本の主題である、「人生後半の戦略書」、人生後半をどう過ごすか?というのがテーマで、一言でいえば、「流動性知能」から「結晶的知能」へシフトすべしと説きます。まず、「流動性知能」とは、革新的なアイデア、数学的能力を生み出す知能で、シリコンバレーの起業家が20代で成功するケースが多いのもこうした自由な発想による「流動性知能」によると説きます。あとは、数学者なんかもそうですよね、革新的な数学のアイデアはたいてい20~30代で閃くといいます。

 一方、「結晶的知能」とは、過去に学んだ知識を活用する能力で、たくさんの知識を蓄え、それを知恵として、後進への指導に役立てる知性です。これは50代以降になっても、衰えない能力で、その代表例は教師、単にモノを教えるのではなく、長年の知識と経験に裏付けられた知恵を授ける、人文系で高齢の教師がそれなりにいるのも、こうした背景があるようです。

  じゃあ、こうしたクリエイティブな「流動性知能」から教える「結晶的知能」に移ればよいのでは、という話ではあるのですが、ここに難しさがあって、移れない要因として、「仕事と成功への依存心」、「世俗的な見返りへの執着」、「落ち込みに対する恐怖心」があると言います。これは実感として理解できるのではないでしょうか。仕事をしていれば、やはり、仕事で成功したい、世間から認められたいと思います。そして、その成功して、世間から認められた状況になったら、そこから外れたくないと思います、いわば、成功のランニングマシンに乗って、永遠に走り続ける、結果、消耗してしまう、これを本書では「成功依存症」と呼んでいます。

 で、どうしたらこの成功依存症を克服できるか、それは「満足」の定義を変えるべしと。成功依存症での満足は欲しいものを手に入れつづけることですが、むしろ、そうではなく、満足=持っているもの÷欲しいものと考えるべしと。なので、成功のランニングマシンから降りて、欲しいものを減らす、こうした削ることが「結晶的知能」のステージにつながると指摘します。

 さて、インドのヒンドゥーの教えでは、人生を4つのステージに分けるそうです、第1ステージは学生期、青少年が学習に専念するステージ、第2ステージは家住期、キャリアと富を築き、家族を養うステージ、第3ステージが林住期(ヴァーナプラスタ)、精神性と深い知恵、結晶的知能、信仰、教育に注力ステージ、そして、第4ステージが遊行期、悟りを開くステージ。この「流動性知能」から「結晶的知能」へ移るステージが、第3ステージ林住期であり、「50にして天命を知る」に近いかもしれないですね。

 と、まあ、この本で語られていること、すなわち、人生後半は「流動性知能」から「結晶的知能」へ移るべしとは、かなりの真実、核心をついていると思います。で、最初に戻って、今の自分を見返すと、人生後半には差し掛かりつつありますが、以前、成功のランニングマシン、消えゆく「流動性知能」にとらわれている気もします。ただ、一つできるとしたら、満足の価値観を変える、欲しいもの減らす、このあたりの見直しからスタートかなあと思い、大いに刺激を受けました。

時間を長く感じる方法

3月 20th, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (時間を長く感じる方法 はコメントを受け付けていません)

 先日投稿されたWebメディアGIGAZINEの記事「年齢を重ねても時間の経過を長く感じさせる方法」(*)について、思うところがありました。年齢を重ねると時間の経過が短くなる、これは実感としてもあり、小学校の1年にくらべると、ここ最近の1年、あっという間に、短く感じます。これは、自分に限ったことでなく、「年を取ると、若かったときに比べて時間があっという間に過ぎる」とは、19世紀の哲学者ポール・ジャネの主張は、「ジャネの法則」として知られているようです。

https://gigazine.net/news/20240229-why-time-seems-to-pass-faster-as-we-age/

で、なぜ、年を取ると、若かったときに比べて時間があっという間に過ぎるのか?自分の理解では、これまで生きてきた時間の割合が違うからと理解していました。たとえば、10歳と60歳の場合、分子は1日かもしれないですが、分母は10歳と60歳でだいぶ違うので、その分、10歳の1日1日が濃くて、長くて、60歳の1日は薄く、短く感じる、すなわち、年齢分母説というのでしょうか、年をとれば、誰もがそういう定めになるのではないかと。

が、この記事によると、これは年齢の関係というよりは、脳の構造にあるようです。というのは、効率的な記憶装置として進化した脳は、「新しいこと」、「驚くべきこと」については、強く反応して記憶する一方、繰り返す事柄については差分だけを保存するようになっているという主張です。なので、日々が新鮮な驚きに満ちあふれている子ども時代は、それだけ多くのことが記憶されますが、年を取って通勤や日々の仕事のようにパターン化した行動を取るようになると、日々が予測可能な内容で終始し、記憶される時間そのものが減少して、1日が短く感じられるようになると。

これは実感として納得できるのではないでしょうか。やはり、日々が新鮮な驚きに満ち溢れている子ども時代は時間の経過を長く感じて、一方、毎日会社にいくだけ、ルーチンワークの日々だとやはり驚き、刺激は少ないのではないでしょうか。一方で、この説は、最初の年齢分母説を良い意味で否定できますよね。というのは、60歳だろうが、80歳だろうが、どんなに年をとっても、新しい刺激、驚きに満ち溢れていれば、時間は長く感じると、たとえば、「いきなり海外の大学でサンスクリット語を学ぶ」、これは全く予想もつかない出来事なので、否が応でも、それは濃くて長い時間を感じざるをえないですね。
 
とはいえ、「いきなり海外の大学でサンスクリット語を学ぶ」というのは、あまり現実的ではないと思いますが、日々のルーチンを見直すというのは現実的かもしれないですね。ルーチンの時間を減らして、新しいことに挑戦する、こうしたちょっととした取り組みがルーチンの「自動運転モード」から抜け出すきっかけになるかもしれないです。3月もそろそろ終わりで、そろそろ4月の新年度スタート、これを機に新しい刺激、驚きを求めて、1日を長く感じたいと思いました。

おそめさんから学ぶこと

3月 3rd, 2024 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (おそめさんから学ぶこと はコメントを受け付けていません)

 「伝説の銀座マダム おそめ」を読みました。自分の中でも良書は、いろいろな読み方ができると思っていて、自分は、この本をビジネス書として読みました。タイトルの伝説の銀座マダムとうくらいで、時代は主に昭和30年代(1950年代)なので、今から70年近く前の話で、だいぶ昔の話です。

主人公である、おそめさん、こと上羽秀さんは、もともと京都で人気舞妓として名をはせ、戦後、京都の高瀬川の水路がかかる木屋町仏光寺に自宅を改修した小さなバー「おそめ」を開きます。それは、別に儲けようという動機ではなく、舞妓・カフェでお世話になったお客さんをおもてなしするところからスタートしました。が、それが瞬く間に、京都の文化人のサロンになり、当時の代表的文化人、大佛次郎、川端康成、小津安二郎といった面々が集う場所になります。

そして、東京をベースにして、京都の「おそめ」に通う文化人が、東京でも店をもってみたら、という誘いもあり、昭和30年、銀座三丁目文祥堂の裏に「おそめ」はオープンしました。そして、おそめさんは、週の半分を東京、残りを京都で過ごし、その移動を当時は珍しかった飛行機を利用したことから、「空飛ぶマダム」と呼ばれたそうです。銀座の「おそめ」も繁盛し、最盛期には銀座ナンバーワンまで昇りつめ、川口松太郎の小説「夜の蝶」でもモデルとなり、時の人にもなりました。

で、この「おそめ」の話、ビジネス書という点では、2つのポイントがあると思いました。まず、一つ目は、事業における成功です。おそめさんは、祗園での最初のお披露目のとき、抜群の美貌と天真爛漫な性格から噂になり、舞妓・女給・マダムと立場が変われど、おそめさんに会いたいと思わせる安定した顧客基盤があった、かつ、おそめさん自身もお客さんとお酒を飲むことがホントに楽しかったそうです。だからこそ、銀座への進出も、何か具体的な戦略があったわけではなく、面白そう、ワクワクするという理由から進出して、結果的に成功したのだと思います。

一方で、もう一つは、「おそめ」の衰退です。京都から東京に進出した「おそめ」ですが、昭和30年代後半になると衰退を始めます。おそめさんがこれまでのお客さんを大事にして、そのお客さんがどんどん年をとり世代交代が進んだということもありますが、それ以上に、「おそめ」の拡大路線が衰退に向かう要因になりました。銀座も繁盛したので、店舗を大幅に拡大した銀座8丁目に移転、あわせて、京都でも昭和35年鴨川ぞいの御池通りに320坪のおそめ会館をオープンし、ナイトクラブ、ダイニングなど多角経営に乗り出します。おそめさん自身は、おカネ勘定にまったく無頓着で、まわりの取り巻きによる規模拡大とは言えますが、やはり、規模を拡大した結果、衰退するという結果になります。とはいえ、戦後すぐにダンスホールで知り合った夫俊藤浩滋が徐々に映画プロデューサーとして頭角を現してきたので、おそめさん自身は幸せな人生だったのかもしれません。

というわけで、おそめさんから学べること、それはありきたりではありますが、自分の好きなことを追求すること、ワクワクすること、楽しそうなことにチャレンジすること、あとは、そのなかでもちゃんとおカネを把握することでしょうか笑